研修旅行「信州野沢ぴんころ地蔵&海野宿」<番外編>
平成23(2011)年7月25日(月)、参加者18名を乗せたマイクロバスは、いなげや日野駅前店を午前8時22分に出発。八王子インターから中央道に入り、途中談合坂での休憩時間を含め約2時間ほど走った後、須玉インターで降りて、すぐ近くの道の駅で買い物がてらの長めの休憩の後、佐久甲州街道を北上し、11時45分ごろ小海町高原美術館に到着。
有山至さん、敬子さん経営の「カフェ花豆」にてボリュームたっぷりの昼ごはん。その後、長野県佐久市にある「信州野沢ぴんころ地蔵」を見学。
そこから1時間弱のところにある東御(とうみ)市の海野宿を散策した後、上信越、関越自動車をひた走り、予定より1時間遅れの午後7時半過ぎに無事日野に戻りました。
元祖「ぴんころ地蔵」見学
今回の研修旅行は今話題になっているぴんころ地蔵を、日野宿にも建立できないかとの話しがあり、まずは元祖「ぴんころ地蔵」を見学させてもらおうとのことで開催しました。
佐久市野沢は旧佐久甲州街道(佐久往還とも)と富岡街道が交差するところで、江戸時代には豊かな米どころだったそうです。まちを流れる清流千曲川にはアユやハヤなどたくさんの魚が棲息し、水田では佐久鯉の養殖が盛んだそうです。清流と米どころというと、まるでかつての日野宿のようです。
この佐久地方は、豊富な川魚や野菜、果実、山菜など自然の恵みは健康長寿を生み出し、また、仕事熱心さや信仰心の深さが日本でも有数の長寿の里としたのではないかと言われているようです。ぴんぴん(健康で長生きし)ころり(寝込んまず楽に大往生する)という願いから「ぴんころ地蔵尊」と命名、建立されたそうです。
当初から関わってきた成田山薬師寺の参道入口にある「魚甲」のご主人市川さんによれば、ここまで来るのにやはり十数年の歳月がかかったといいます。野沢商店街振興組合の発案で始まったものの、その後まちぐるみの取り組みとしたことで今のような賑わいをえることになったとも。
多額の寄付をしてくれたという人形屋さん。同行した人形屋の鈴藤さんもご存じでした。参道入口に立つ山門も地蔵の覆屋も賽銭箱もすべて寄進されたものといいます。信心深い方々がほんとうに多いですね。
参道では毎月第二土曜日に山門市が開かれ、大変なにぎわいだそうです。グッズも多種多様販売されていましたが、この日仲店には占いまで出ていました。お話を伺い、日野宿の地蔵尊建立に向けての夢もいっそう膨らんだようなが気がします。
「カフェ花豆」にて
地蔵尊を訪ねる前に昼食をいただいた小海町高原美術館にある「カフェ花豆」について。有山至さん手づくりの生ハムと敬子(ゆきこ)さん特製の野菜たっぷりのカレーライスとデザートをいただきました。(下の写真3枚は井上博司さん撮影)
かなりの大皿にもかかわらず、新鮮な野菜が豊富だったからでしょうか、参加者のほとんどが残さずいただきました。トマトやブルーベリーとマッチしたアイスクリームもおいしかったです。至さん、敬子さんごちそうさまでした。
「海野宿」見学
ぴんころ地蔵尊見学のあと訪ねた信州北国街道の海野宿(東御市)について。この宿は寛永2(1625)年に開設され、中山道と北陸道を結ぶ重要な街道で、佐渡で採れた金の輸送にも使われたそうです。街道入口の白鳥神社のケヤキの大木が目を引きました。
全長約650メートルの宿内には街道の中ほどに用水が流れ、両側には趣のある町並みが続きます。現在も住まいとして使われています。学校帰りの少年も……。
もちろん今回も看板に目がとまりました。谷師匠の教えに従えば、やはりこの看板はいいできではないかと素人ながらに感じました。
かつて研修旅行で訪ねた栃木宿や由比宿とはまた趣の違う海野宿でした。鈴木藤隆さんのデジブック『 『北国街道 海野宿』 』も合わせてご覧ください。
さてこれは蛇足ですが、帰りのバスでのこと、ちょうど妙義山を右手に見る辺りで突然の豪雨に見舞われました。やはり雨女であるW女史の所為か。それからしばらくして、突如マイクを握ったW女史が「東京のバスガール」を歌ったと思いきや、今度はパチンコ店で流れる場内放送の物まねを披露。あまりのうまさにしばし歓声がなりやまず。
これもぴんころ地蔵尊のご利益でしょうか。